| 第1回 穂高小屋へ |
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小屋はどこだ? 1985年4月23日 昨夜から降り続いた雨が上がった。「ヘリポートへ来るように」と無線が入る。急いで宿を発ち、迎えにきたジープに荷物を積み込んで出発。時計を見ると午後一時になっている。 ヘリポートではすでに作業が始まっていた。輸送する資材をモッコ(資材運搬用のネット)でくるみ、ヘリでつり上げる。重たそうに機体を上げたヘリは、しだいに点のように小さくなり、やがて視界から消えていく。
飛騨側から信州側へと稜線を越えると、巨大なアリ地獄状の地形が眼下に広がる。涸沢カールだ。機体が吸い込まれそうな高度感。カールの上空で90度旋回して向きを変え、機体は稜線上の雪原に無事着陸。 強烈な旋風を残してふたたび飛び立ったヘリが見えなくなると、あたりは静寂につつまれた。慌ただしい出発で息をつく間もなかったが、あたりが静かになり、我に帰る。まわりは一面の雪原だが、これから一シーズンを過ごすことになる山小屋はいったいどこにあるのだろう?建物らしきものはいっさい見えないのだが・・・・。
内部に入ってみて初めてそこが建物であることを知る——。こんな経験は初めてだ。さっきの雪原は、じつは小屋の屋根に降り積もった雪だった!しかも場所によっては10メートル近い積雪に。かつては豪雪地帯として名を馳せた故郷の高田(新潟県上越市)でさえこんなことはなかった。 部屋に荷を置き、さっそく除雪作業に加わる。気持ちよく晴れ渡った北アルプスの山やまは、まだ分厚い雪におおわれて真っ白だ。西に笠ガ岳の稜線が、東には常念岳から蝶ガ岳へと続く稜線がくっきり見える。眼前のサメの歯状の稜線は、かつて大島亮吉[註2]が遭難した前穂高の北尾根だ。 日が西に傾き、穂高連峰の影が常念山脈に伸びるころ、ようやく作業を止めて小屋に入った。
[註2]大島亮吉 日本のアルピニズム黎明期に活躍した登山家。大雪山のパイオニアでもあり、慶應山岳部時代の大正13年に、クワウンナイからトムラウシに登り、石狩岳まで縦走した記録は著書『山—随想—』(中公文庫)に詳しい。 なぜ山小屋なのか? 大学卒業後、同級生の多くが“一流企業”に就職するなかで、穂高の山小屋でアルバイトをすることを選んだ背景には、自分なりの理由があった。ひとことでいうと、「大人の社会」への反発、だろうか。社会人として「ちゃんとした生活」を送ることへの疑問、「つまらない大人にはなりたくない(佐野元春『ガラスのジェネレーション』)」という無邪気な反抗心だったかも知れない。詳しくは『旭岳通信』第14号に書いたので、そちらを併せて読んでいただけたら幸甚であるが、身のまわりで起きたある遭難事件をきっかけに、論理や道理ではなく、「無理が通れば道理は引っ込む」「声の大きい者が勝つ」のが、「大人の世界」であることに気がついた。つまり、自分なりの道理を貫こうとしたら、企業社会で「ちゃんとした生活」を送るよりは「もうひとつの道」を選ばざるを得ないというリクツに、自分のなかではなってしまったのだ。もちろん当時は、論理的に考えてそういう結論に達したわけではなく、なんとなく感じていただけだったが、この頃読んだ植村直己さんの著作に“背中を押される”かたちで、一種の“悟り”を得、結果的に「もうひとつの道」に踏み出すことになってしまった。 話を当時に戻す。 「四月二十日ごろ入山予定なので、その直前になったらまた連絡する」という電話が東京の下宿にあったきり、卒業式を終え、新潟の実家に戻って待てど暮らせど何の連絡もない。ホントに使ってくれるんだろうかと心配になり、こちらから連絡してみると、「(こちらから)ぜんぜん連絡がないから、どうしたんだろうと思っていた」という返事。しかも「じゃ、明日来てくれるかな」という。何も準備していないので、即座に「いいともー」とこたえる訳にもいかず、二三日中に登山口の新穂高温泉に入るということで話がついた。 出発の朝、身のまわりのものを詰め込んだ70リットルザックを背負って駅へむかった。当時の国鉄信越線から高山線に乗り換え、飛騨高山でバスに乗り換えて新穂高温泉に到着した頃には本格的な雨になっていた。 一日待機の翌日、天候の回復を待ってヘリで入山。穂高での山小屋暮らしが始まった。 穂高小屋 日本地図を広げてみよう。新潟県の南部から静岡県の北部にかけて、濃い茶色の線が数本、ほぼ南北に走っている。そのなかでもとりわけ高く、長野県中部と岐阜県飛騨地方にまたがって聳えているのが穂高連峰だ。登山に興味がなくても、名前くらいは聞いたことがあるだろう。
[註]今田重太郎著『穂高小屋物語』より。現在の名称は穂高岳山荘。 |
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