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2010/09/06 Monday 23:44:15 JST
 
 
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Bureau of Ecotourism in Asahidake Range

 

山楽舎BEARは 「 大雪山の“いま”を楽しみ“あした”を考える 」 をテーマに、登山ツアー・エコツアーを行っているガイド組織です。

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第8回 はやく穂高へ帰りたい
   三千メートルのゴミ集積場

 一ヵ月にもおよぶ除雪作業の甲斐あってようやく雪のなかから本棟が掘り起こされると、次は別棟の冬期小屋の発掘がはじまる。とくに期限が決まった仕事でもないので、五月の陽光に照らされてまぶしく輝く北アルプスの山やまや、水墨画のように累々と重なる飛騨の山波に見とれて、スコップを動かす手がどうしても休みがちになる。ときには相棒のクラちゃんと山の話をしているうちに休憩時間になっていたりする。


次第に姿を現す穂高小屋
(1985年5月1日撮影)


 そんな楽しい作業も、掘り進むうちに、いつしか重苦しい気分に変わってきた。冬期小屋の入り口付近はゴミの“大鉱脈”だったのだ。雪の下にゴミが埋まっているのではなく、ゴミまじりの雪の層が何層にも重なっているという状態だった。ドロップの包み紙やティッシュの切れ端が雪とごちゃ混ぜになっているのだ。雪のなかからゴミを取り除きながら、スコップで掘り進むので、ちっとも作業が進まない。

 やっと入り口の雪を除け、引き戸を開けて中へ入ってみる。空になったガスカートリッジ・食べかけのソーセージ・ラーメンの空き袋・丸められたティッシュ……。足の踏み場がないほどのゴミの山。まるで「野良犬に荒らされたゴミステーション」状態だった。日が高くなって気温が上がると、雪のなかで冷凍保存されていたゴミが解凍され、臭いを発しはじめる。

 「可燃ゴミ」「不燃ゴミ」「空き缶類」を分別するように置かれているゴミ箱のすぐ脇に、紙くずもビニールも生ゴミも空き缶もすべてごちゃ混ぜになって放置されている。「ゴミと良心は下界へ」というのがヤマ屋の常識だと当時は思っていた。その後あちこちでヤマ屋の行状を見るにつけ「登山者の良識」など幻想にすぎないのかも知れないと思うようになった。


冬期小屋の入り口はゴミの山
(1985年5月撮影)


 冬期小屋の発掘も終わり、いよいよ仕事がなくなってきた。天気がよければ外へ出てスコップで雪をつついていればいいのだが、雨が降るとそうもいかない。小屋じゅう探しまわって運良く仕事にありついても、せいぜい半日保てばいいほうだ。やがて仕事にあぶれたスタッフが一人また一人と一部屋に集まってきては「チクチク」をはじめる。

 冬のあいだじゅう、小屋内の湿気を吸い込んだフトンは、晴れ間をみては次々と干されるのだが、屋根の上は、所どころ釘が出ていたり、トタンがめくれていたりするので、フトン干しのときに必ず何枚かはカギ裂きになる。溜まりにたまった破れ布団を、針と糸でつくろっていく作業が「チクチク」で、仕事にあぶれたスタッフの“失業対策”になっている。

 裁縫が女性の仕事だというわけではないが、ゴツい男が何人も集まって、「ウォークマン」[註1]を聞きながら、会話もなく、黙々と針を動かすさまはブキミだ。「昼ご飯だよ」と呼びにきたボン君は、部屋の引き戸を引いた瞬間、思わずのけ反ったという。そして一言「怖い」とつぶやいた。

 やがて入山してくるサッちゃんと花子さんという二人の女性スタッフのおかげで、お針児?さんから解放されたが、こんな毎日にいいかげんウンザリした筆者だったが、ようやく順番がまわってきた休暇をもらって下山することになった。


   緑の美しさに感動する

 6月4日。入山以来ひと月半ぶりに下界へおりる朝、小屋前には従業員がずらりと並び、盛大な見送りである。のんびりしていると除雪作業がはじまり、後ろから雪ブロックを投下されるおそれがあるので、長靴グリセードで斜面を駆け下りる。

 所要時間15分で700メートル下の涸沢ヒュッテに到着。山荘のアルバイトということで、スタッフの方がジュースでもてなしてくれる。

「(客が少ないこの時期は)ヘタに一人かふたり客が来ると始末が悪い。そのために外仕事を止めなきゃならないんだから」と語る。まったくそのとおりで、今朝もたったひとりのお客さんのために、6時前に起きて食事の用意をするはめになった。いまから思うと、接客業の自覚がまったくない「古きよき時代」の山小屋意識だった。

 おやつにどうぞとオレンジをもらい、「(積雪期ルートの)本谷は、スノーブリッジが薄くて危険だから夏道を行きなさい」という指示に従って、雪渓を下る。しばらく雪の上を歩き、ようやく傾斜が緩やかになるころ、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。有機的な香ばしい匂い。土の匂いだ。なんだか目頭が熱くなり、鼻の奥のほうがツーンと痛くなった。

 久々の土の感触を楽しんでいると、いきなり視界に飛び込んできたものがあった。新緑の葉の色だ。黒みを帯びた深い緑色の山肌のなかに、そこだけ飛び出しているかのように色がちがう部分。限りなく柔らかく、優しい、黄色味を帯びたその色に、まるで初めて目にするもののように網膜が敏感に反応する。緑がこんなにも優しい色だなんて、ずっと下界で生活していたら、気づかなかっただろう。


網膜に突き刺さるような新緑の色
(1985年6月4日撮影)


 道はやがて樹林のなかのだらだら下りになる。いつもならまわりの景色に気を取られることもなく、駆け下るのだが、いまは違う。白(雪)と青(空)と灰色(岩)しかない単調な色世界から、中間色が豪華絢爛にひしめき合う世界へ来たのだ。赤や紫の花の色に網膜が勝手に反応してしまう。こんな体験はいまだかつてなかった。花を見るたびに胸が熱くなり、広葉樹の芽吹きに目が釘付けになる。「萌える」というより、緑の炎が「燃え」ているように感じられて仕方なかった。


   はやく穂高へ帰りたい

 涸沢までは、透きとおった濃い蒼だった空の色が、下るにつれてかすんだような色になり、積雲がもくもくと頭をもたげてきた。樹林帯に入ると、いままでかいた汗が冷え、ひんやりとする。

 横尾本谷にかかる橋の手前で、むこうから近づいてくる登山者の顔を見て、思わず声をあげる。
「あれ〜?」
「オーっ!」
虫歯治療のため、大型連休明けから休暇で下山していたオトメさんだった。ようやく完治したので、これから入山するのだ。下界はすでに暑く、半袖で大丈夫だという。小屋では、毛布3枚プラス掛け布団にセーターまで着て寝ているのに、なんだか別世界のようだ。

 オトメさんと別れ、翡翠色に輝く梓川源流部の渓谷(横尾本谷)にかかる丸木橋を渡り、横尾へとむかう。横尾山荘でゴム長靴を預かってもらい、運動靴に履き替える。ここから先は、車も通れるほどの道幅で、登山者は少なくなり、若い男女や外国人も多く見かけるようになる。梓川にそって徳沢から明神へと下るにつれて、山桜(チシマザクラかも知れない)が香しい香りを放っていた。


梓川の清流越しにみる明神岳
(1993年5月16日撮影)


 午後二時頃に上高地の合羽橋に到着。年配の夫婦や半袖姿の若い女性、“族”ふうのアンちゃんもいる。標高1500メートルは、軽井沢とほぼ同じ。もはや下界と言っていいだろう。ヤマ屋の格好をしている自分が「浦島太郎」のようだ。

 バスで松本へむかう。「上高地-松本」の往復切符をもっていた中高年の女性がバスに乗り込もうとすると、それを遮った車掌が「整理番号順です」と威張って言う。「(整理券は)どこにあるんですか?」と女性が尋ねても、その車掌は「ニバンマドグチ」と官僚的に答えるだけで、肝心の「二番窓口」がどこにあるのかは教えてくれない。乗車券を持っていても整理券がないと乗車できないフシギなバスだ。——これが下界か。

 松本で国鉄に乗り換え、さらに新宿で国電に乗り換える[註2]。梅雨入り前のネットリとした空気の重さ。ホームから電車に押し込まれた瞬間、人波に取り囲まれて身動きが取れなくなった。となりの男性の汗ばんだ肌がピタリとくっつくおぞましさ。——これも下界か。

 はやくも穂高へ帰りたくなった。

[註1]「ウォークマン」 1985年当時流行っていた携帯音楽プレーヤー。SONY製で音源はカセットテープだった。
[註2]国鉄/国電 当時はまだJRは存在せず、長距離の電車や汽車を「国鉄」、山手線や総武線などの短距離路線を「国電」と呼んでいた。
 
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