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2010/09/06 Monday 23:13:20 JST
 
 
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Bureau of Ecotourism in Asahidake Range

 

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第17回 峠の山小屋(1)
   峠の山小屋

9月9日

 小屋泊まりなら必要のないテントや寝袋が増えるので、テント山行のばあいはどうしても荷物が多くなる。70リットルめいっぱいとはいえ、ザックひとつですんでいる私はまだマシなほうだ。相棒のオトメさんは、ひとつでは足りず、小さなザックを大きなザックの上に、子ガメのようにくくりつけている。バランスが悪いうえに、ザックの上部がふくれあがって後頭部を圧迫し、頭が上がらない。小屋から奥穂山頂へつづく斜面を登るだけで、すでに汗だくだ。夏のあいだ、ほとんど外を歩いていなかったおかげで、確実に体力が落ちている。

 岩場が終わり傾斜が緩くなったあたりで、霜柱を見つけた。九月初旬にして早くも冬を感じてしまうとは……。空一面にひろがっていた黒雲が消え、秋らしいヒツジ雲が空をおおいはじめている。明けがた東の空をみたとき、墨を流したような黒雲が一面にひろがっており、出発を見合わせようかと迷ったほどだったので、天候の回復はうれしい。

 奥穂山頂から吊尾根をくだり、最低鞍部から稜線づたいに前穂を目指す。五月にクラちゃんと明神岳へいったとき、最低鞍部からの取り付き点がわからずに、そのまま巻き道を行ってしまったという、いわく付きのルートだ。


吊尾根から槍穂高連峰
(1985年9月9日撮影)


 尾根道だけに展望はいい。足下からスッパリと切れ落ちる絶壁のはるか下に、氷河によって、すりばち状に削りとられた涸沢カールがひろがっている。現在は巻き道のほうが「一般ルート」とされているため、尾根通しのこの道は廃れつつあり、ルートを示すペンキの「○」印が薄くなって見落としやすくなっている。


前穂から涸沢カールを俯瞰する
(1985年9月9日撮影)


 前穂山頂からは重太郎新道を岳沢へおりる。この「新道」ができるまでの経過は『穂高小屋物語』に詳しい。

 かつて「新道のできる前の、前穂と岳沢の間にある一枚岩を左に巻いていくルートは、いくら直してもくずれてしまう」「修理するにもできないような難所」で、当時小屋主だった先代の重太郎さんは「穂高小屋から岳沢へおりる人がいるとき、天候が悪ければ必ず注意するか引き止めた」という。

 かねてから、もっと安全な登山道をつくれないものかと思っていた重太郎さんは、「終戦ごろ登山者がほとんどいなくなったとき、クマやカモシカがふえ前穂のあたりにもときたま姿を見せて、その通ったあとにフンが落とされているの」に目をつけた。「フンが落ちているということは、身構えてフンを出せる安全なところ」だから、あちこちにあるこれらの”キジ場“をむすべば安全な登山道がつくれるのではないか、と考えたからだ。
「さっそく、そのフンのあとに目印をつけはじめ」4・5年がかりの偵察のすえに「安全なルートが切り開けるという見通しがついた」。「そこで昭和二十六年の九月十日ごろ」「岳沢にテントを張り、一挙に新しい道の開設にとりかかった」。こうして現在の重太郎新道ができあがった。


重太郎新道から南アルプスと富士山を望む
(1985年9月9日撮影)


 「新道」は登山者が安全に通れることを第一に考えてつけられた道だけあって、こんなところに付けなくても、と思うような箇所にまで鎖場が設けられている。危険防止のためというよりはむしろ、気休めというか、精神安定剤的な役目のほうが大きいようだ。

 気になるのは、岩肌が摩耗してツルツルになっている箇所が多いこと。似たような現象は、西穂山荘から西穂山頂へむかう縦走路や、尾瀬の至仏ヶ岳山頂周辺でもみたことがある。何十万というハイカーが毎年訪れる場所だけに、おおくの足に踏みつけられて、こんなにツルツルになってしまったのだろう。この「新道」にはかつての「難所」の面影はない。


重太郎新道から見る奥穂と西穂
(1985年9月9日撮影)


 植生がハイマツからダケカンバへと変わる森林限界付近に小広いテラスが現れた。「カモシカの立場」という立て札がある。西穂高の岩稜とダケカンバの尾根を背にして立つカモシカの姿はたしかに絵になるが、じっさいにそんな場面があるのだろうか?

 樹林帯へ入り、高度を下げていくと、木の間越しに見え隠れする岳沢ヒュッテの赤い屋根がしだいに大きくなってくる。薄暗い林を抜けてホソバトリカブトが生える草原を通過し、乾いた灰色の岩がゴロゴロしている涸れ沢に出た。岳沢だ。

 右岸にわたり、岳沢ヒュッテで休んでいると、すこし暑くなっているのに気づく。九月の前半といえば、下界ではまだ「残暑厳しい折」である。標高2200メートルのこのあたりは、下界にくらべたらはるかに涼しいにちがいないが、すでに初霜や初氷を経験したわれわれには「暑く」感じてしまう。

 大石だらけで歩きにくい岳沢沿いの道をくだって、上高地の外れに出た。道行く人は、われわれ以外はすべて男女連れの観光客だ。巨大な荷を背負ってドタドタと歩くわれわれは、どこから見ても場違いだ。

 三時ころ明神に到着。宿泊予定地・徳本峠(とくごうとうげ)までは高度差600メートル、二時間ちょっとの登りだ。ところが最後の登りを前にして脚が言うことをきかなくなってきていた。ときおりピクッと筋肉が引きつる。日没までに峠にたどり着けるのだろうか。たかだか25kg程度の荷を背負って半日歩いたくらいでこのざまとは、なんとも情けない。夏のあいだほとんど小屋のなかの仕事しかしていなかったせいだろうか。アイスクリームと牛乳で養分を補給し、最後の登りにそなえる。

 30分ほど休憩したあと、白沢にかかる橋をわたって、いよいよ徳本峠への登りにかかる。登るにつれて道幅は狭くなるが、小砂利が敷かれたつづら折りの道はあるきやすい。というのも、ここはもともと登山道としてではなく、生活の道として開かれたからだ。 

 『穂高に生きる』によると、「この道は昔から海のない信州と富山の最短距離として、海産物を運搬する本道となっていて、松本方面から島々、徳本峠、上高地を経て飛騨、富山へと結ばれていた」。そんな生活の道が、日本の近代登山の発展とともに、先駆的な登山者たちが足繁くかようアルプス街道になっていった。しかし1933(昭和8)年にバスが上高地まで入るようになると訪れる人も減り、いまでは落ちついた静かな山歩きを楽しめる場所になっている。早い話が「廃れた」わけだ。

 道の歩きやすさにくらべて足どりは重い。疲れきって会話もなく、黙々と足をはこぶ。段差が膝上まである大岩を乗りこえようとした瞬間、金縛りにあったように足が動かなくなった。大腿部の筋肉が、表も裏もすべて痙攣している。

 オトメさんに手伝ってもらい、ザックを肩からはずし、やっとの思いで膝を曲げて路上に座り込む。たんねんにマッサージして、なんとか曲がるようにはなったが、大股でグイグイと高度をかせぐような歩きかたをするとまた“つる”ので、歩幅をできるだけ小さくして、足を引きずるように歩く。筋力を使わずに痙攣をさける省エネ歩行だ。

 峠まであと200メートルというところに小さな沢があり、丸木で組んだ橋が架かっている。橋のたもとに看板があり、「水不足のため峠に水なし。ここで水をいっぱいにつめて来峠してください」と書かれている。2リットルのポリタンに水を満たすと荷物が2キロ増え、足にかかる負担も大きくなる。しかし水がなければ炊事ができない。ヤレヤレ……。

 水を汲んで出発したのが五時半。高度を上げるにつれて木の間からときおり見える穂高連峰の姿は、ギザギザの稜線が不気味にせりあがり、仙人でも住んでいそうな雰囲気だ。日没までには峠について、穂高に沈む夕日を見よう、と気ばかりあせるが、足はいっこうについてゆかない。この角を曲がったら……というかすかな期待を込めてつづら折りの道をひたすら登っていくのだが、そのたびごとに期待は見事に裏切られる。えい!もうどうにでもなれっ、と開き直ったとたん、目の前に小屋が現れた。5時55分。どうやら日没には間にあったようだ。

 (以下次号につづく)
 
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